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川と生活のつながり



上田地方の土地利用

信濃国府の置かれた地

現在の信濃国分寺
現在の信濃国分寺にある三重塔

上田付近は河岸段丘が発達し上田市街地の東部では、大きく3段を数えることができる。高位の第1段丘は染屋台といい、標高は500m以上である。一方低位の第2段丘は上田市街地が広がる面で、標高は460mほどである。さらに第3段丘その下部に形成されている。この第3段丘面に国分寺と国分尼寺が建立されていた。天平13年(741)聖武天皇が諸国60余カ所に国分寺を建立し仏教を広めた一環で、上田には信濃国分寺を建立した。昭和38年から46年にかけてこの地を発掘、僧坊と尼寺跡の礎石を発見した。現在は史跡公園となっている。国分寺が上田に置かれたのは、上田が信濃国では開発が早く、文化が他に比して発展した先進地であったことによる。

また信濃国府が上田に置かれた。国府の置かれた位置は未だ確定できないが、国分寺の近くで国分寺面より高い段丘面ではないかと推定されている(上田市誌の見解)。しかし、信濃国府は10世紀初頭には筑摩郡へ移転した。

第1段丘の染屋台の開発は早く、弥生時代にさかのぼるといわれる。また、ここには条里的遺構が広く分布している。こうした水田の整理事業は一般には斑田収授の法に基づいて口分田として実施されたものである。上田にはこうした条里的な遺構がこの染屋台・国分・常田・常磐城・秋和・塩田平・一帯に広がっている。昭和47年からの調査でこの条里的遺構は律令政治が行われていた時代より下がった時代の開発であるという(上田市誌の見解)。いずれにせよ、こうした条里的遺構が存在することは大変高度な土木技術が使われ、多くの人々が動員されて行った大事業であった。

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