上田地域自然電子図鑑-千曲川と上田地域の自然 はじめての方へ
サイトについて
千曲川の生き物河川のはたらき上田と千曲川-生活と歴史サイトマップもっと知りたい方へ
 
戻る


川と生活のつながり



千曲川の川風と蚕種製造

上田紬の製造

蚕種製造が産んだもうひとつの産物は上田紬である。生糸にならない屑繭やさなぎが2つ入った玉繭などから真綿をつくり、これから紡いだ糸が紬糸であり、この糸から織り上げたのが紬である。蚕種業が発展すると、蚕種製造時に出殻繭(さなぎが出て繭に穴のあいたもの)が大量に出た。この出殻繭からは生糸はできない。そこで真綿をつくり、紬糸をとり、紬を織った。これが上田紬である。

江戸中期には上田紬は江戸でも評判の織物で、井原西鶴の本にも登場する。上田紬の特色は何より丈夫なことが知られていた。「三裏縞」ともいわれ、三回裏地を取り替えるほど丈夫であった。こうして上田紬は江戸庶民の着物として広まった。幕末、天保元年(1830)には上田城下での絹紬(白紬・縞紬・白絹・絹縞)の生産は8万3800反であった。

幕末、上田紬が三都(江戸・大坂・京都)で広まると、上田から千曲川下流の更埴方面でまがいものが生産され、上田紬として出された。 そこで、上田藩は安政4年 (1857)海野町に産物会所を設置して、取り締まり、藩の統制下においた。

明治時代になっても、上田地方の蚕種業発展の中で上田紬の生産はつづけられる。しかし、次第に繊維の多様化で絹織物や銘仙などは人気があったが、紬は次第に人気がなくなった。ただ、紬のもつ軽くて冬暖かく、かつ丈夫であるところから、年寄りには好まれた。

戦後、衣料統制がつづき衣料にも事欠いた頃、養蚕業の復活で屑繭から紬糸をつむぎ、上田紬を織る人がでてきた。また昭和23年(1948)神科村(現上田市)出身の元蒙古自治政府最高顧問金井章次が軍放出の真綿を紡ぎ、糸に加工、紬を織ったのがきっかけで上田紬は復活した。次第に生産量も増え、昭和28年(1953)には上田紬織物組合が結成された。

昭和30年代になると、衣生活の中で着物に対するあこがれが強くなり、紬もこうした動きのなかで生産が増えていった。そして、昭和40年代には「紬ブーム」が登場する。上田紬が全国的に有名になったのは、豊富な原料があったこと、良質な手織りと草木染めのもつ素朴さにあった。昭和50年(1975)には通商産業省から伝統的工芸品「信州紬」の指定を受ける。上田紬の特色は経糸には生糸、緯糸は真綿から紡いだ手紡糸を使用するのが一般的に多かった。

昭和40年代に入ると国内産生糸が高値となったため、安価な中国・韓国・ブラジル産生糸を使用するようになった。一方、緯糸も安価な中国産手紡糸へと変化していく。

昭和50年代になると、女性の社会進出は顕著になり、これに伴って服装はそれまでの和服に代わって洋服一本化となり、上田紬のブームも去った。この頃から紬を愛好する人は着物を日常着ている人に限られてきた。着物離れは絹離れとなってきた。このような厳しい状況の中、上田紬の機屋は製品のコスト切り下げや、シルクの新製品開発も行ったが現代の着物離れに歯止めを掛けるまでになっていない。

上田紬のお土産品
上田紬の製品

上田紬は現在着物や帯地としての利用のほか、みやげ品としてネクタイ・ハンドバック・財布・名刺入れ・木目込み人形・花瓶敷・各種袋物などに加工されている。

戻る
ページの上へ
進む
 
上田地域千曲川自然電子図鑑
写真・図・掲載内容の著作権はそれぞれ、所蔵者ならびに出典者に帰属します。
All Rights Reserved. Copyright © Ueda City Multimedia Information Center -UMIC-