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川と生活のつながり



千曲川の川風と蚕種製造

きょうそ害の少ない蚕種製造地

岩鼻の地形 坂城方面
半過岩鼻から見た上田盆地最下流部
岩鼻の地形 上田市
岩鼻と塩尻方面

カイコは上簇(じょうぞく)後、18日間に繭をつくり、さなぎになる。そしてさなぎは繭を破って蛾となって羽化する。羽化した蛾は卵を産む。蛾の産んだ卵を蚕種という。蚕の卵の製造を専門とする産業を蚕種業(さんしゅぎょう)といい、江戸時代初期から中期にかけて奥州の信達地方(現福島県福島市周辺)が中心であった。蚕種製造には第一内陸の乾燥地が好条件であった。信達地方は阿武隈川流域の内陸でその条件を満たしていた。ここでとれた蚕種は「奥州本場」として全国に販売された。

江戸時代中期には、上田藩塩尻組でも蚕種を製造する家が出てきて、商うようになった。初期には信達地方へ出向いて蚕種製造をしていたが、次第に上田盆地の千曲川沿岸地域が信達地方に自然条件が極めて似ており好条件を生かして蚕種製造ができるようになった。そして幕末にはわが国最大の蚕種製造地に発展した。

良質の蚕種とは蚕の飼育中にきょうそ害に遭わない蚕種である。きょうそとはカイコノウジバエが蚕の飼料である桑の葉に卵を産み、それを知らずに蚕が食べると、ウジバエの卵が蚕の体に入って、孵化して幼虫になり成長する。そして上簇後、ウジはさなぎから出て繭を食い破って外に出る。これで、繭の中で蛾が死滅し、種繭としては使えない。このため、蚕種家はきょうそ害を防ぎ、出蛾率(蛾の出る割合)を高めることに努力した。

出蛾率の高い蚕種はカイコノウジバエが卵を産みつけてない桑を与えればよいわけだ。そういう桑は蛾の出が良いということで、歩(出蛾率)が出る桑として、歩桑(ぶくわ)と呼んだ。歩桑の取れるところは、内陸で乾燥する大きな川の周りや、扇状地の砂礫質の土壌のところである。こうしたところは吹きさらしのガラ地のため、厳冬期にはカイコノウジバエの卵が生育できない。

長野県の生んだ地理学者三沢勝衛は『風土論』の中で、蚕種業が千曲川・犀川合流点から千曲川沿いに上流の上田市大屋付近まで集中している理由として、川原の乾燥と川風を優れた自然条件としてあげている。

上田盆地下流部の塩尻地区は最も優れた蚕種を製造したところとして知られているが、ここは千曲川の両岸から岩鼻の断崖がせまり、谷幅850mという狭い谷をつくっている。風は下流の坂城町の方から西風となってこの峡谷を通って強風となり塩尻地区に吹き付ける。塩尻は年中川風がある。この強風でカイコノウジバエは桑葉に産卵ができない。よって、歩桑が育つというわけである。

千曲川沿岸の畑で見かけるヤックラ
千曲川沿岸の畑で見かけるヤックラ

また、群馬県の田島邦寧は『養蚕新論』の中で、上田盆地の蚕種桑園について、千曲川の沿岸は砂石ばかりだ。その地を4−5尺(120−150cm)堀り起こし、竹で造った、篩(ふるい)で、砂礫をふるいだし、ヤックラという石積をつくり、桑はヤックラの間の砂地畑に植えた。こうした畑では砂礫質のため地温が高く肥料の分解が早いため、脂分の桑葉がとれきょうそ害がない、といっている。

塩尻地区の蚕種屋の家並み
塩尻地区の蚕種屋の家並み

塩尻村(現上田市)は大正時代から昭和初期にかけて、長野県蚕種の4分の1を製造するところとなった。蚕種の製造は蚕種屋(たねや)で種繭を生産、そこから蛾を羽化させ、蚕種を製造した。蚕種屋は養蚕業から蚕種業まで行うため大きな蚕室が必要で、春蚕や秋蚕、晩秋蚕などは暖房を入れるため、その排気となる「気ぬき」と呼ばれる小さな屋根が大屋根の上にある蚕室が多い。現在も、こうした蚕種屋の家並みが塩尻地区には見られ、往時を物語っている。

蚕種屋の旅立ち
蚕種屋の旅立ち
『塩尻地区写真集より出典』

蚕種屋は蚕種を製造するとともに、蚕種を販売する商人でもあった。蚕種屋は自分の蚕種販売先を確保していて、それを種場(たねば)と呼んだ。蚕種屋は蚕種を持って、秋から初冬には種場をまわり、前年に渡した蚕種の代金を回収し、翌年の蚕種を渡してきた。この時に養蚕の技術指導も併せて行ったのが上田の蚕種屋の特色である。上田の蚕種屋は江戸時代中期以後「養蚕書」を著している。上塩尻村塚田与右衛門『新撰養蚕秘書』、舞田村中村弥七郎『天保蚕秘養蚕重宝記』、上塩尻村藤本善右衛門『蚕がいの学』、同村清水金左衛門『養蚕教録』などは知られた養蚕書であった。

大正時代の上田盆地の千曲川沿岸はどこも桑園に覆われ、養蚕業や蚕種業が盛んに行われた全盛期である。蚕種用の桑園としては上田城下の鴨池蚕種桑園と大星蚕種桑園の2ヶ所が知られている。いずれも砂礫層の土壌でガラ地である。ここでできた桑は塩尻村をはじめ上田市の蚕種屋が買い付けた。上田は養蚕業や蚕種業が盛んな上、明治25年、小県蚕業学校を、また、明治44年官立の上田蚕糸専門学校を設立した。こうして、産業界と教育界が一体となって蚕種業を中心とした「蚕都上田」がつくられた。

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