人間は水の流れというエネルギーを、水車という技術で動力化して利用することを発明、人力や蓄力からの開放を行ってきた。それは幕末、開港後生糸がわが国の主要輸出品となって脚光をあびた製糸業の発達に役立った。明治に入り、輸出品としての生糸が急増したことで、上田小県地方でも蚕糸業は大きく変わる。絹糸や絹織物を扱っていた業者も生糸を手がけた。
明治12年、上田の長岡万平・田中忠七は生糸の品質を向上するため、それぞれの家でつくった小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き返した。この作業を「揚げ返し」と呼んだ。2人がつくったこの揚げ返しの工場を「拡栄社」といい、上田柳町の矢出沢川畔にあった。動力は小宮山瀧兵衛の水車を利用した。そして座繰挽製糸場枠器械を取り付け、320個の小枠から80個の大枠に巻き返した。このように水車は製糸工場の動力として大きな役割をはたした。そのため、製糸工場は川に沿って立地した。しかし、まもなく石炭を利用する蒸気機関の出現により川の便に関係なく工場が立地でき、動力として水車をはるかに上回っているために、水車はすたれていく。
しかし、農村部の水車は精米や製粉作業に利用され、大変重要な役割をはたした。水車は小川の傾斜等の地形・水量・利用戸数等で水車小屋の規模や水車の水掛の形式が決まる。一般的には平地で水量が多い川に水車小屋をつくる場合は水車の下側に水の流れをもってくる。反対に傾斜地で水量が少ない場合は水を上掛けとする。上田地方で米を搗(つ)く水車の場合、米搗き臼は4つあり、一度に2俵搗くことができた。また、水車の回転を利用して石臼を回転させ、小麦粉を製造した。昭和30年代まで農村部・山村部の各地には水車小屋が残っていて、活躍していた。 |