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川と生活のつながり



千曲川通船

重量のある物資や人の輸送には船が大きな役割を果たしてきた。千曲川に船運を計画したのは江戸時代初期である。寛文年間(1661−73)、幕府によって計画された小諸から新潟湊間の通船が初めてである。しかし、この通船計画は街道や商人などからの反対で実現しなかった。その後、寛延2年(1749)に水内郡権堂村(現長野市)の瀬兵衛が信越境の水内郡森村(現下水内郡栄村)から小県郡諏訪部村(現上田市)までの通船を申し出たが街道の反対で実現しなかった。

千曲川に初めて通船が許可されたのは寛政2年(1790)、水内郡西大滝村の斎藤太左衛門である。通船区間は西大滝村と高井郡福島村(現須坂市)の間13里(52km)である。

幕末の文政4年(1821)には松代藩が通船に参加し、松代―飯山間を運行した。天保11年(1840)には善光寺後町(現長野市)の商人厚連(こうれん)に丹波島(現長野市)−新潟間の通船が許可され、物資や人の運搬が盛んに行われた。

明治7年、千曲川・犀川通船会社が設立、6社が参加し北信濃一帯を営業する通船事業を行っていた。その中には千曲川最上流部には上田会社があり、営業区間は上田―戸倉、最下流は飯山会社で営業区間は腰巻―西大滝であった。明治16年頃からは通船事業は軌道にのり、全盛期を迎えた。しかし、明治21年(1887)直江津―軽井沢に鉄道が敷設されると、千曲川通船の貨物は鉄道に奪われ、急減した。

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