木材のような重量のあるものの運搬はかつて川に流すという、「木流し」という方法がとられていた。江戸時代初期にはこうした木流しには木材をばらばらにして流す「早(さ)流し」と筏(いかだ)を組んで流す「筏ながし」があった。千曲川の上流では水量が少ないため、農業用水を利用する期間は用水の取り入れ口を壊してしまうため、この木流しを制限した。しかし、上田盆地から下流の千曲川では水量も多く、用水路への支障も少ないため、筏流しは行われていた。
千曲川の木流しで知られているのは、善光寺造営材を運んだことである。現存する善光寺本堂造営は元禄14年(1701)から行われ、宝永4年(1707)に完成した。この造営に使われた木材は大工木村万兵衛が検分を行い、佐久地方の相木(北相木村・南相木村)、八那池(小海町)、海尻(南牧村)、大日向(佐久町)などから伐採された。運搬は宝永2年(1705)から千曲川での木流しによった。木流しを行うに際しては、農業用水堰や川除け(堤防)を壊さぬように注意をして流した。
材木は筏を組んで千曲川を下り、長野盆地の犀川合流点から犀川を引き上げ、さらに裾花川へ引き入れ九反(くたん)地籍で陸揚げされた。そこから善光寺へは大八車を使って運んだ。善光寺造営工事は宝永元年(1704)に着手されたがこの工事の総費用は2万4577両余であった。大日向(佐久町)には善光寺本堂中央の向拝2本を伐採したという言い伝えが残されている。
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