大正6年(1917)、千曲川沿岸の堤防が内務省管轄堤防に編入された。改修工事費は各町村に割り当て寄付金でまかなうことになった。寄付金は上田町4,703円、塩尻村4,703円、城下村3,615円、川辺村1,519円、泉田村319円、神川村303円などであった。
千曲川右岸の改修は昭和初期から工事が進められた。従来からの霞堤を基に沈床工事、水衝部への護岸石張、石張のコンクリートによる間詰、堤防の嵩上げ、堤防上(馬踏 うまふみ)の拡張などをおこない強固な堤防を構築した。
左岸の飯島堤防は戦後昭和25年8月5日の洪水で破堤し150mにわたって決壊、濁流は塩尻村をおそった。この時の被害は流失耕地10町歩、冠水16町歩、浸水家屋20戸、鉄道の流失100mなどであった。この修復工事で矢出沢川の出口にも霞堤を延長、二重堤防として強固なものとした。
右岸の堤防は以前の堤防を改修して、沈床工事、石張り、嵩上げするなど補強をして強固な堤防とした。中之条堤防は千曲川の流心に向かって大きく湾曲して、強固な堤防となっていたが川辺村下之条との間は水衝部でないため堤防がなかった。この部分に直線的に堤防を建設した。
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