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千曲川の災害の歴史



戌の満水

大河千曲川は太古から度々洪水を起こしてきた。上田小県地方では18−19世紀の200年間に千曲川沿岸の田畑が流出した洪水は記録に残るだけでも40回を数える。こんな中で近世最大の大洪水は寛保2年(1742)の「戌の満水」と呼ばれているものである。

この年旧暦の7月27日から8月1日(太陽暦では8月27日―30日)にかけて豪雨がつづいた。この原因は歴史書によると台風が運んだ集中豪雨によるものとされている。台風は大阪周辺に上陸、北東方向に進み、中部・関東を経て東北地方に抜けたと見られている。中でも信州(長野)・上州(群馬)・武州(埼玉・東京)一帯が集中豪雨に見舞われ、浅間山地の南西斜面に降った豪雨は千曲川に流れ出し、大きな被害をもたらした。

千曲川上流の南佐久郡八千穂村上畑の集落は一夜にして流失、248人が溺死、佐久平各地で流失家屋230戸余を出した。小諸では浅間山麓から流下する中沢川・松井川に土石流が発生し小諸の町を直撃、死者584人、流家373戸の大被害が発生した。

小県地方では金井村(現東部町)の所沢川上流で山崩れが起こり谷を埋めた土砂が天然ダムをつくり、それが切れて土石流となり村を襲った。これにより113人の死者になった。また、この土石流は下流の常田村(現東部町)を直撃、流失家屋119軒、死者68人に達した。また、おびただしい耕地を流失した。

上田盆地の大屋村(現上田市)では「流死人7人あったが、これらの人々は小河を越えて千曲本流へ出て、そこに上流から葛籠や長持、家具など流れ来るのを引き留めて、山のように積み上げた。これが面白さに帰ることを忘れていた。その内に追々水量増して、帰ることが出来ぬ故、積み上げた物の上に腰掛けて、途方に暮れていたが、夜明けには人も物も跡形なく流失した」(『上田市史』)とある。

また、さらに下流の上田城下でも同じようなことが起こっていた。「(8月1日午前)常田踏入辺の人63人、中島へ渡って流れ来る物品を溜めたり、河原に押し上げられた鯉鮎などの魚を拾って、帰ることを打ち忘れ喜んでいたところ、水量一度に増して来て、権現坂辺まで水一面になり、・・・川を越して帰り得なくなった。・・・3日3晩で(水がひき)ようやく戻ることができた」(『上田市史』)

さらに左岸の中之条村(現上田市)では死者42人がでた。「この村で流出者が多かったのは、この頃藤兵衛という人、新しく土蔵を建てた。その土蔵は新しいので安心と思い、付近の人々が皆その土蔵へ避難した。然るにその内夕刻となり水量は嵩み、その土蔵も夜の内に押し流され、内に避難した多数の人々は皆流失した」(『小県郡年表』)

正福寺の供養塔 千人塚
正福寺の供養塔

こうした被害地の下流にある上田盆地は流れがゆるやかになり、上流から流されてきた家財道具や死体が諏訪部村(現上田市)に流れ着いた。上田藩主の命令で塩尻村(現上田市)秋和の正福寺の門前に引き上げ、埋葬して供養塔を建てた。これが「千人塚」である。

上田原町「問屋日記」
上田博物館蔵 「問屋日記」の表紙

この寛保の「戌の満水」と呼ばれる大洪水は、上田城下原町の「問屋日記」に記されている。上田小県地方の上田領では158人の流失者があった。(『上田小県誌』)

なお、この「戌の満水」と呼ばれる大洪水は下流の長野盆地赤沼で水嵩5メートルに達し、千曲川流域で2800人の死者を出す大災害をもたらした。

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